「なあ、孫。“愛いやつ”とは一体どういう意味なのじゃ?」
とうとう来たか。
引きつりそうになる口元を抑えながら孫市は息を吸った。
― 変わった日 ―
“愛いやつ”。
ガラシャが問うた言葉の意味は響きそのまま。愛とか好意とかそんな口にしづらい、もしかしたら世界を救っちゃったり
するかもしれないものが主な成分であろう。
表面では何の気負いもなく滑るように口をついていた台詞の一つだが、世間知らずのお嬢さまに告げるのはいささか
気後れが過ぎていて。
出来うるなら問うてくれるな、とこっそり願っていたのだが。
ここにきて形にされてしまった疑問に孫市は頭痛を覚えた。
(……世の親々がさんざん困らせられるってのは聞いてたんだが…)
なるほど。これほどに純粋に問われれば言葉に迷いもするはずだ。
“子どもはどこから来るのか?”。
究極の難題だと言われる言葉の連なりが頭をよぎった。
まあ、さすがにそんなことまでのん気に問われるほどこの平和は長くないだろ、つーか長くなんな、と非常に不謹慎な
ことを考えながら孫市は一度そらしていた視線を合わす。
「一体全体、何がどうしてその質問なんだ?」
とりあえず理由を聞くべく問い返す。
質問に質問を返すのは礼に反しているが、一日に何度も問答をしている自分たちには珍しくない。
返されたガラシャも頓着せず答えを告げる。
「いや、この前実家に帰ったときに耳にしたのじゃが」
そう言うガラシャの言葉にいく日か前、彼女がしばらく帰省していた頃を思い出す。
あの時はたしか着物を冬物へ変えに行ったんだったか。
戻ってきた姿のあまりもの身軽さ(本当に着替えてきただけだった)に唖然としたのを覚えている。
未だ幼いとはいえ年頃の女がそれでいいのか、などとぼんやりと思い返していたからか、次に発せられた言葉に孫市
は心底から度肝を抜かされた。
「のう、なぜ信長殿は父上にそう言ったのであろうか?」
てっきり好いたもの同士で言いあうのかと思っていたのだがのう。
不思議そうに首を傾げているガラシャの声が遠い。
爆弾発言。
全くもって予想もつかないそれに一瞬、孫市の視界にぴよぴよと星が巡った。
茫然としたのち『…………はあ?なんだって?』と呟けば少女は律儀にくり返す。
二度三度聞いてもやっぱり答えは変わらなかった。
(おいおいおいおいおいおいおいおい?!!)
“信長”が“父上=光秀”に何を言ったって?
“愛いやつ”。
勝手についてきた信長の声で再生された台詞に、ぞぞぞぞぞ、と孫市の背に鳥肌が駆けのぼる。
今だけは己の逞しい想像力がひどく憎かった。
「…………………………………なあ、秀吉。俺もう信長追うのやめるわ」
「! そうか!やっと分かってくれたんか!孫市ぃッ!!」
ずっと抱えていた問題があっさりと解決したことに感涙している秀吉は『追うも何も関わりたくねぇ』とぼそりと落とした
孫市の声に気づくことはなく。
「クククク…、まこと愛いやつよのぅ。光秀」
「そうやって苛めるから怯えてしまいますのよ、貴方」
そう全くたしなめの効果のない夫婦の真意も知られることはなかった。
仇を見る目が変わった日。
それは一部の人間(光秀とか光秀とか光秀とか)にとって途轍もなく不名誉な理由でもって至極平和に訪れた。
08.01.18UP
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光秀下克上理由=『家庭崩壊してくれたらどうしてくれやがるんですか!!?』だったら笑えない。
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