儚くこの手をすり抜けていったのは。
― 虚無の光 3 ―
「…………そういえば、あの娘はどうなったんだ?」
周瑜は朝の定例報告で言われたことに目を瞬いた。
「それは…孫策が連れてきた彼女のことを仰ってるのですか?」
「“その彼女”以外にどの娘が居るんだ」
苦笑しながら答えられるも、まさかふとしたことで関わった娘のことまで聞かれるとは思わなかったのだ。
何故なら聞く彼はこの国の君主、孫堅だったのだから。
(本当にこの家族は…)
一度でも身の内へと入れた者は最後まで大切にする。
どうしてこの乱世でそう生きられるのか、不思議に思うほどなのだ。
自身も惹かれたこの性質に、いつもならまた臣の心も高まるのだが。
「……今では寝台から起き上がることも出来るほどに回復しています」
「それは良かった……が、何か問題があるんだな」
「…体の方は回復したのですが、心の方は未だ……」
「そうか…。…心の傷は俺たちの力でどうこう出来るものではないからな」
それは彼女がここに来て三日たっての会話だった。
「…………珍しいな」
「そりゃあないぜ、周瑜…」
朱塗りの扉を開けて見えたのは一日の内で何割も使われてないだろう机に向かう部屋主の姿だった。
「明日は船上訓練をするつもりだったんだが…」
「それは遠まわしに俺を貶してるのか?」
「遠まわしではなく、真正面からな」
「お前本当に俺の義兄弟かよ…」
口元を引きつらせながら言う孫策の前には、いつもなら追い立てられてやっと手をつける執務が並んでいる。
ちなみにその追い立てる役は大抵自分か孫権だ。
「しかも結構進んでるじゃないか」
「……邪魔するなら帰れ」
憮然とそう言う孫策を見るのも楽しいのだが、さすがにこの有難い気まぐれを潰すのは惜しい。
周瑜は手近の椅子に腰を据え、本題へと口を開いた。
「殿が彼女のことを気になされていたぞ」
「…………親父が、か?」
「ああ」
不貞腐れて筆を揺らしていた孫策の動きが止まる。
「親父たちにはあいつのこと話してたからなぁ…」
「……君は殿に報告しないつもりだったのか」
「あんま騒ぎ立てるもんでもないだろ」
「それは、そうだが…」
一国の、ましてやこの城の主に黙って一人の人間を連れ込む気でいたとは。
「尚香も気にしてたんだよな」
「彼女と姫は同じ年頃だからな。特に気になるのだろう」
「あー、尚香に任せるって手もあるかもな…」
女同士でしか気付けないこともあるだろうし、と顎に手を添えて言う孫策に目を眇める。
「孫策」
「ん?」
「…君は、彼女をどうしたいんだ?」
「は?」
考え込み俯けていた彼の視線が上がった。それを確りと合わせる。
「君は何故彼女を連れてきた?」
「…そんなの簡単だろ」
「…………」
机上に並ぶ竹簡へと向き直り、孫策は口を開く。
「あの武を逃すのが惜しかったからだ」
もうどれだけ時間がたったのだろう。
村へと現れた、切り掛かってしまった赤い服の男性に連れられるままにここへ来た。
何だか大きなこの建物に着いて真っ先に傷の手当てをされて、酷い格好だったのを整えられ、今こうして寝
台の上に居る。
ここに来て、どれほどの時が流れたか。
もう何度朝と夜を迎えたか。
自分は何をしていたか。
そんなことも分からない。
ただ、目を閉じれば闇の中に浮かぶ人たちがいて。
目を開けばふとした切欠で甦る記憶がある。
いつまでもこの胸を突く痛みは消えなくて。
何をするでもなく、たゆたう中この痛みだけを感じていた。
感じて、いたのだけれど。
「頼もー!!」
「!?!!」
突如開かれた扉と響く声にびくりと肩が揺れる。
逆光の中で入り口に立つ者の顔は見えず、ただ細い陰影だけが確認できた。
あちらには自分をはっきりと見ることが出来るのか、しばらく彷徨わせていた顔を向け、こちらへと歩んでく
る。
「貴女が策兄様の連れてきた人ね」
「………」
「思った以上に可愛いわ。兄様ったら面食いね」
「………」
「ああ、私の名前は孫尚香。尚香でいいわ」
「………」
近くへ来てやっと認識出来た相手は活発そうな瞳を持つ少女だった。
自分が答えることもないのに話し続ける勢いに呆気にとられていると、ふいに目の前の少女が自分の手を
掴んだ。
「少し散歩に行かない?」
そうして答える間もなく自分は陽の注ぐ回廊を、手を引かれ歩いていた。
どうしてこんなことになったのか。
あれよあれよと進んだ事態に軽く眩暈がする。
―――いや、これは久しぶりに歩いたせいで起こる眩暈なのかもしれない。
もう随分とこの足を使った覚えはないのだから。
「策兄様から、あー…貴女のこと、聞いたわ」
沈みかけていた意識をすくうように、声が掛けられる。
「村のことも」
けれど、すぐさま浮かんだ意識は沈められ。
息が、つまる。
目を閉じれば闇の中に浮かぶ人々の笑顔。
目を開けばふとした切欠で甦る穏やかな記憶。
どうしてもこの胸を突く痛みは消えなくて。
「例えば私が…父様を失くしたら、この景色さえ目に入らなくなるかも」
少女が言い、目を移すのは回廊の向こうに群生した花々。
「例えば私が策兄様を失ったら、こうして歩くこともなくなるかもしれない」
そう言って、歩み続けていた足を止める。
「例えば私が、権兄様を失えば…こうして話すこともなくなるかもしれないわね」
沈黙が落ちる。
遠く、ひばりが鳴く声が聞こえた。
「でも」
ずっと背を向けていた少女が振り向き、自分を見る。
「でもね、どんな時でもこうして手を引く人間が居ることは忘れないで。
見ている人がいることを忘れないで」
強く、強く私の手を握る。
活発そうだと思った少女の瞳は今、とても真摯に見つめてきていて。
「あー…でも、うん、こんなこと私に言われたくないわよね…。えっと、貴女の気持ちは…貴女にしか分から
ないわよね」
ばつが悪そうに揺れる瞳に。
未だ解かれることのない手に。
「大切なもの、だったのでしょう?」
その温かさに。
凍りついていた何かへと血が廻って、私が還ってくる。
「えっと…、その、あー…」
彷徨わせていたもう片方の手で私の頭を軽く撫でる。
戸惑っている少女に、今は遠く懐かしい、大切な思い出を感じた。
「… 」
「え?」
聞きなおしてきた少女に、尚香に再び口を開く。
随分と久しいこの行為はとても難しく感じられたのだけれど。
「…」
「……えっと、貴女の、名前…?」
こくりと頷く。
「貴女って、言いづらそう…」
「………」
「…だった、から」
「………」
言い切って、ずっと黙っている尚香に目を向ける。
もしかして余計な言葉だったのだろうか。
「あの…、っ」
謝るべきか悩み、声を掛けた瞬間尚香に抱きしめられていた。
「??」
「すごい嬉しい!!!」
「え…?」
「声聞けたのがすごい嬉しいの!」
何とか顔を上げれば目の前に浮かんでいたのは満面の笑顔で。
「………」
「良かった…」
何だかまた、胸の奥に温かさが宿った。
「嘘をつくな、孫策」
「……あっさりと見抜くなよなー、周瑜」
「これでも義兄弟なもんでな」
言い返せば舌打ちとともに孫策は自分から目を逸らした。
「……………俺は……力とか、そういう理由をつけて
償いたいのかもしれない」
「………」
いつの間にか差し込んだ陽に、部屋の物が長い影を作っている。
影に目を眇め、遠く窓から外を覗き孫策は言う。
「あいつに、“奪うことしかしない”と言われた時に、一瞬心の臓が冷えた。
………結局は俺たちが望むことも、奪うことに過ぎないんじゃねぇかと、そう思った」
「…だから償いなのか?」
「そういう気持ちがなかったとは言えねえ」
「……あの時もか?」
「は?」
伏せていた瞳をこちらへと向けてきた。それがさっきと同じだな、などと考えながら周瑜は言葉を紡ぐ。
「彼女へ言葉を返した時もそう思っていたのか?」
「………」
「“生きてる”んだろう?」
「………」
「生きてほしかったんだろう?」
「…ああ」
「だったらそれが答えだ」
やっと戻った孫策の笑みに周瑜がため息をもらす。何故ここまで手間取らされるのやら。
「だったら最初から聞くなよなー」
「再確認させてやったんだから感謝してほしいものだが?」
「ったく、分かっててやるから性質わりぃーんだよ」
「お前が珍しく落ち込んだりするからだ」
こんな、執務にさえ手をつけるほどらしくないなんて。
「明日が雨になると困るからな」
「……お前、本当に失礼だぜ…」
繰り返す他愛もない軽口に、周瑜は柔らかく目を細めた。
「」
「…うん」
「ふふ、策兄様より先に知っちゃったわね」
「ああ…悪いこと、しちゃったな…」
「いいのよ!私が先で!ていうか先じゃなきゃ怒るわ」
「…そう、なの?」
「そう」
ずっと手は離れることはなくて。
温かさにふっと彼の言葉を思い出す。
「……生きてる、か…」
「何か言った?」
「いや、何も…」
尚香の笑顔に風に揺れる花々が重なって見えた。
05.04.23UP
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自分の周りが全て崩れたら、きっと自分というものを認識することも出来ず、ただ混乱するのではないかと。
そんな中で自分を見つけてくれるのは自分以外の誰かしかいないのでは。と考えた話です。
やっと名前を呼んでもらえました。第一号は尚香さん!それにしても長い話で申し訳ない…。前話の2倍
はあるよ…。
後1つ山を越えたら短編のさんに戻っていく予定です。
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