零れ落ちた望みに、強く手を握りしめる
けれど
すり抜けたそれは、決して消えてはいないのだ
― 尚も遠く 4 ―
「曹丕様」
じっと戦場を見据えていた自分へとかけられた声に、静かに視線をやる。
見ればこの隊をまとめていた男が傍らに跪いていた。
五十を過ぎてなお戦場に立つ、長く魏に仕えている歴戦の兵である彼に僅かに眉をしかめて続く言葉を待つ。
「恐れながら、あのような新参者の策を採られるのは如何かと」
そうして、出てきた予想通りの言葉に内心辟易する。
暫く待っても自分が何も答えないのに焦れたのか、その皺と傷の刻まれた手を強く握り締めるのが見えた。
「曹丕様っ」
「…そう言うお前ならどんな策をたてたというのだ?」
尚も訴えようとする男から視線を逸らし、言葉を投げかける。
それに戸惑うような雰囲気を漂わせながらも、やっと返答があったのが嬉しいのか、彼は勢いよく問いに答
えた。
「かような賊など火矢で十分かと」
「火計か…」
「山のふもとを押さえておけば、逃げることも出来ますまい」
自分のたてた計であれば確実だと、微塵も疑っていないその言葉に曹丕は口元を歪める。
それではこの一帯に住む民にどう生活していけと言うのだ。
民の生活に山は深く関係しており、賊がいるとはいえおいそれと焼き払っていいものではない。
第一、こう緑が多い山がそう簡単に燃えるはずもなく。
嘲り以外の何もない笑みを浮かべ、曹丕は男の言葉に返す。
「私もあやつと同じ策を考えていたのだがな」
「は…」
「それを愚策と言うか?」
「め、滅相もございませんっ!」
ちらりと見やれば、地に頭を打ち付けそうな勢いで彼は跪いていて。
一層、嘲りの笑みを深める。
「まあ、囮は違ったのだがな…」
今採っているのたてた策と、自分が考えていたものはほとんど変わらない。
変わるのは囮という一点だけ。
苦戦に見せて賊をおびき寄せ、伏兵により退路を断った上で弓兵をあてるつもりだったが。
頭目への対処が甘いと分かってはいたのだが、まさか囮となるとは…。
あっさりと自分が行くと言ったを思い出し、こめかみに手をやる。
何故この乱世の中、旅をしていてああも危機感がないのだ…。
笑ってさえいた、緊迫感の欠片もない言葉に小さくため息が出た。
「…曹丕様」
「その名で呼ぶな、と言ったはずだが?」
「っ、申し訳ありません……」
未だ地に向けられる男の頭上を見やり、配置へと戻れ、とそれだけ言う。
一瞬ためらいながらも、結局は視線を合わすことなく男は去っていった。
いつもこうだなと、ふとそう思う。
生まれついて人を従える位置にいた自分と目を合わすものなどおらず、いつも彼らが跪いている姿しか見
てこなかった。
そうして言うのは決まって『流石は殿のご子息』『お父上のようにご聡明で』などという、父の影が付きまと
う言葉ばかりで。
いつしかそれが当たり前だと、奥底で腹立たしく感じながらも諦めかけていたのだけど。
「…」
面と向かって言葉を交わし、隣に立って同じ目線を持つものなど、いなかった。
いないと、そう思っていた。
「」
名を紡ぐ相手の、ひたすらに真っ直ぐな瞳を思い起こす。
ただ一つを追い求め、手に入れたいと逸らすことなく見据える視線が、何かを揺さぶる。
どこか、その思いが自分と重なって――…
「…どうして、お前はそこまでする?」
今はたてた策のために槍をふるっているだろうに、遠く言葉を向けた。
戦が始まる。
さて、そろそろ頃合いかな?
まるで自らの手足のように黒い槍をふるい、はそう前方の敵を見据えた。
戦が始まって早一刻。上手い具合に味方は退いてくれている。
それにつられて出てきた賊は、利のある山から随分と離れていて。
恐らく憮然としながらも指揮を執っているだろう雇い主を想像し、小さな苦笑が零れ出る。
反論もさせず言い逃げてきたからなぁ…。
一時とはいえ、従うべき相手に対する態度では全くない。
けれど、と近づいた賊の剣を槍の中心で受け止め、流す慣性にのせて胴をなぎ払いながら思う。
こうしないと頭は潰せないだろう?
おびき出すためワザと受けた傷に眉をしかめるでもなく、次の相手を地に伏す。
いたる所を血に染めながらも正確に敵を倒す姿は、他人が見れば恐ろしい以外の何ものでもないかもしれ
ないが。
急所は避けてるから別にいいんだけどね。
また一つ増えた傷に目を留めるでもなく、僅かに後退した。
そろそろ苦戦を装わねばせっかくの策が無駄になってしまう。
すると遠巻きに見やっていた賊が徐々に近づいてきた。
何て分かりやすいんだ…。
策をたてておきながら、こうもあっさりと引っかかる賊に思わず呆れる。
でも、呆れるのは……彼らだけではないんだけどね。
ふっと、自分の今の立場を省みて、そう思う。
こんな血を流し、囮までするなんて考えてもいなかった。
仮初めの主なのに、彼へと追い求めていた気持ちが行き着いたわけでもないのに。
どうしてかな…。
それでもこの槍をふるうのは止めず、囮であることを投げ出す気にもならない。
どうしてかな。
こうして敵に囲まれても、知らず笑みが浮かんでしまうなんて。
そう、賊を見つめ思っていた瞬間、
風にのった声に、目を見開いた。
「 」
ぐっと槍を強く握り、向かってきた賊の肩を突いて、はやる心臓の音を誤魔化す。
そうして目の前の空間を薙ぐように一閃させて、賊との距離をとった。
今の、声は…。
すっと、賊の向こうに目をやれば、いるはずのない
彼がいた。
たてた策の通りに味方を退かせながらも何故か、どうしても自分は退く気になれず何人かの賊を斬り、曹
丕はそこに立っていた。
横には戸惑う護衛兵がいて、それを目に入れぬようにしながらまた一人賊をなぎ払う。
「そう…子桓様っ、お退き下さいっ」
「………」
必死に言う彼の言葉に答えず、……いや、答えられず曹丕は土煙の上がる戦場を見据える。
何故退かぬのか。そんなことはもう何度も自問していた。
けれど答えは出ず、足も動かなくて。
絶対に前線に出るなと言ったの言葉がよぎる。
そのつもり、だったんだがな…。
策を成すためにはこうして賊をくだしてはならないと、分かっているのに。
――。
声には出さず、唇だけで紡いだ名に、剣を握る力が増した。
――。
ごう、と髪をないだ風に、
いつの間にか近づいた剣戟に、
視界に舞った黒衣に、名を呼んだ。
槍をふるう、黒衣に紅を散らすの名を呼んだ。
すると決して届くはずのないそれに、漆黒の瞳がゆるく上げられる。
困惑に染められたそれは自分を真っすぐと見つめてきて。
瞬時に、すさまじい闘気が向けられた。
それは正しく、獰猛な獣を感じさせるあの気迫。
直に向けられたそれに、僅かに眉を寄せる。
それでも視線を逸らすことが出来ず、見つめていれば軽く肩を竦めたのが見えた。
そうして、の瞳が軽く伏せられる。
ほんの一瞬の間のその後…
「……退くぞ」
「は、そ、曹丕様?」
「退くと言ったのだ」
「あ、…はっ、直ちに」
傍らの護衛兵に言い捨て、踵を返す。
「………生きて戻らねば許さぬぞ、」
笑みを浮かべた黒衣の将に、言葉を残して。
伝わるはずのない、小さく零したそれ。
けれど、恐らく
「この戦はの勝ちだ」
まるでこの空のように曇りなく笑ったの表情に、知らず口元が上がる。
退いた兵の元へ戻る中、風がまた、地をなでていった。
05.05.19UP
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