満月の夜に

 

     束の間の

 

     霞んだ先の―――出会いを

 

 

 

                                        ゆめうつつ ― side. ―

 

 

 

     確か私は白く光る満月をただぼんやりと見つめていたはずだったのだが……

 

     「何者だ?」

 

     これは一体、どういうことなのだろう?

 

     「……………………何者って…」

 

     むしろアンタこそ何者だ、と心中で呟いてから首元で光る、鋭い輝きを見下ろす。

     どうみても真剣だ。

     そのまま横引いたらすっぱりと切れてしまいそうである。――――自分の首が。

     自らの半身を紅く染めるなどと悪趣味な嗜好は持っていない。ので、何とかそれ以上の距離を縮められないよう、おずおずと

     尋ねる。

 

     「見ての通り、普通の女ですが?」

 

     それこそどこにでも居る一市民だ。

     まあ、こんな夜更けにふらふらと出歩くのは少し変わってるかもしれないけれど。

     しかし相対する人物はこの言葉になお更眉をしかめ、細められた瞳が深く突き刺さる。

 

     「嘘を言うな」

     「……嘘じゃないんですけど」

 

     嘘も何も。普通に道を歩いていて、普通の格好をしていて、普通に空を見上げていた自分が、どう普通の女じゃないと言うのか。

 

     ――――それとも、“彼”にとっては少なくとも普通ではなくなるのだろうか?

 

     眩い光で照らされる目の前の彼――自分の命を握る人物をそっと窺う。

     濃紺でまとめられた落ちついた色合いの…和服に似た着物。

     緩やかに背へと流れる長めの髪。

     鋭い褐色の瞳。

     そして、間違いなく銃刀法違反に引っかかるだろう、剣。

 

     ―――――訳が分からない。 が、恐らく自分と“彼”がどこか決定的に違うのは分かる。

 

     「………何が目的だ?」

 

     こちらの視線に気付いたのか声を一層低くして彼が訊ねてきた。

     目的。そんな大層なものが自分にあるはずもなく困惑に眉尻が下がる。

     しいて言うなら

 

     「取りあえずこの状況の把握、ですかね」

     「………。……何を言っている?」

 

     軽く、けれど根底には真剣さを含めて言えば彼のまとう空気がわずかに揺れた。

 

     もしかしたら、きちんと話せば分かってくれるかもしれない。

     そう思って瞳を据え、口を開く。

     根本的な疑問を訊くために。

 

     「あの、ここはどこですか?」

 

     言った瞬間、彼がぽかんと目を開いた。

     ………そんなにおかしな質問だったのだろうか…。

     心底呆気にとられている彼に気まずさが募る。

 

     「えっと、気が付いたらここにいたと言いますか…。その、さっきまでは家の近くの川で月を見上げて“きれいだなー”“月見団

      子食べたいなー”なんて思ってたんですけど…

      …………すみません、本当にここがどこか分からないんです…」

 

     慌てて言葉を重ねてみたが、これでは余計に胡散臭くなってしまうだけで

     思わず自分に呆れた。

 

     (むしろ変なやつだと思われたかもしれない…)

 

     途中の余計な言葉に口元が引きつる。月見団子だなんて……何を言ってるのだ、私は。

     きっとこの人もそう思っただろうと、俯けていた視線を上げたらすっと喉元の冷たさが引いた。

 

     「? あの…」

     「あれは真だったのか…」

     「はい?」

 

     自分を置いてするすると進む展開に間抜けな声が出る。

     それに彼は戸惑ったような、驚いたような、複雑な視線を返す。

 

     「……まるで月から下りてきたように、現れたのだ」

     「……………………私が?」

 

     一瞬、何のことを言っているか分からなかったが今ここで彼の言葉から導き出される対象は自分しかおらず、訝しさを隠しもせ

     ず問えばこくりと頷かれた。

     まさかそんな…かぐや姫でもあるまいに…。

     幼い頃に親しんだ物語を思い浮かべ、有りえなさに痛む額を押さえる。

 

     「そなたは……天の使い、なのか?」

     「いやいやいや、ないから!」

 

     タイミングよく掛けられた言葉に盛大に首を振った。

     天の使いなんて…。自分のどこをどう見てそう言うのか。

     柄じゃなさすぎて眩暈さえ起しそうになる。

 

     「……ならば…物の怪か?」

     「………差が激しいですね…」

 

     今度は正反対へ位置づけられた身に落ちた肩がもう一段下がる。

     どうしてこう極端なんだろう。

 

     「私は人ですよ。ただの女。そうさっきも言ったでしょう?」

     「……だが、…」

     「まあ、私もどうしてこうなったかは分からないんですけどね」

 

     彼が言う、“月から下りてきたように現れた”理由は知らないけれど

     でも

 

     「人です。私は、という名の一個人です」

 

     これだけは変わらないと、見上げる高さにある瞳を見据えた。

 

 

 

     「…………そうか」

     「はい」

 

     しばらくの沈黙を挟んで、彼はそう言った。

     納得してくれたのかは分からないけれど、随分と落ちついた、最初とはまるで違う彼の瞳に肯定を重ねた。

     淡い色の、自分とは違う目がわずかに緩まる。

 

     「

     「…はい?」

 

     いきなり呼ばれた名に少し驚きながら応えれば、彼は

 

 

     「私は張遼。…と同じ、人だ」

 

 

     その顔に柔らかな微笑みを浮かべて、そう言った。

 

 

 

 

     「?」

     「――は、はい?」

 

     不思議そうに呼びかけられてハッとする。返した声が動揺に裏返ってしまって、彼が――張遼さんが目を瞬くのが見えた。

 

     「えっと、あの…」

     「!

 

     流れる空気を換えようと出した意味もない言葉が張遼さんの声に止まる。

     何を驚いているのか、と思う間もなく

     目の前の彼が霞んだ。

 

     「え…」

     「…刻のようだな」

 

     所々掠れて、周波の合わない無線のように遠く聴こえる張遼さんの声音に戸惑い、揺れる彼の姿に目を凝らす。

 

     「今度は迷わずに戻るのだぞ」

     「……はい」

 

     ズレて、歪んだ先で唯一合った瞳に必死に頷いた。

 

 

 

     そうして

 

 

 

 

 

     「………………あれ?」

 

     さらさらと流れる川の音に瞬く。

     茫然と立っていた場所は月に誘われ歩み出た馴染み深い川で。

 

     「…………………………ゆ、め?」

 

     何も変わらない情景にぽつりと呟く。

 

 

     さらさらと水の流れが耳に届いて、どこかで秋を伝える虫が鳴いていた。

 

 

     「……何だったんだろ…」

 

     首を傾げても答えが返るはずもなく、一つため息をついてそろそろ戻らないと拙いだろう家路へと向き直った。

 

 

     その背をただ月だけが照らしていて

 

 

     「………夢、じゃないよね…」

 

 

     見上げた、記憶よりも傾いた月に自分とどこか違う彼を重ねた。

 

 

 

 

     きらきらと、一層の美しさを見せる月の下

 

     わずかな

 

     ほんのわずかな邂逅

 

     それは夢でもなく、かと言って現には儚く

 

 

     ひどく朧気な、出会い

 

     それでも

 

 

 

 

     「名前、呼べなかったなー…」

 

     張遼、と。

     呼ばれた自分の名に、返すことが出来なかった彼の名。

 

     いつか、また呼ぶことがあるのだろうか…。

 

     ゆるゆると夜空の下を歩み、出会った事実である彼の名をもう一度脳裏に浮かべた。

 

 

 

                                                              06.06.17UP

 

 

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